1. HOME
  2. 特集
  3. 次の世代に伝え託したい。 子どもたちの遊び場だった定禅寺通の原風景

SPECIAL

特集

次の世代に伝え託したい。 子どもたちの遊び場だった定禅寺通の原風景

ケヤキと俺は同級生。粉塵で真っ黒になってしまったケヤキの木を明るく照らしたくて、43歳の時「ハロー定禅寺村」の仲間たちと一緒に「SENDAI光のページェント」をはじめて開催しました。子どもの頃から一緒に育ってきたケヤキたち。毎年新緑の頃に芽吹く緑を見ると、長い間本当にがんばっていると感心しちゃうんだよね。


 

仙台市民のひとりとして、せんだいタウン情報machico編集部が今回お話をお聞きしたのは、定禅寺通活性化検討会の米竹 隆さん。定禅寺通り街づくり協議会の前身でもある「ハロー定禅寺村」の発足メンバーとして、定禅寺通エリアの発展に貢献されてきました。

みなさんにとって、定禅寺通エリアはどんな場所ですか?どんな変化があるといいですか?
みなさんが「こうなったらいいな」と思う定禅寺通エリアをイメージしながら、ご一読いただければと思います。

 

もう一度、子どもも大人も楽しめる遊び場に。

米竹さんは今年で79歳。定禅寺通エリアで生まれ育ち、今も定禅寺通のケヤキ並木を目にしない日はないそうです。ビルも車もなく子どもの笑い声が響いていた時代から、「杜の都」のシンボルとして成長した今の定禅寺通まで、これまでの歴史を知り尽くされています。

「子どもの頃の定禅寺通は今の中央緑道(グリーンベルト)の幅だったので、10~12メートルと狭くて、今でこそ車が走ってるけれど、昔の定禅寺通は遊び場だったね。地域の子ども達も、めんこやベーゴマで遊んだり、冬は県庁前の起伏を使ってそり遊びをしたり、沼もあったから釣りをしたり、緑も多くて昆虫採集もできた。定禅寺通エリアは楽しくて遊ぶことに事欠かなかったね」

定禅寺通のケヤキ並木は「庭木」のようなもの。子どもの憩いの場でもあった定禅寺通が単なる目的地までの通過点となっていることはさみしいと話す米竹さん。

「貴重な財産でもある特色あるケヤキ並木を活かして、定禅寺通エリアは活性化すべきだと思うんだ。定禅寺通活性化検討会でたくさんの人が話しているカフェテリアのような使い方もいいね。さらに、みんなが遊べる庭のように使ってもらうのもいいと思います。緑道で将棋や写生、音楽を自由に楽しめたり、常に子どもたちやファミリーが集まるようなエリアになってほしい」

米竹さんのお話されたことが定禅寺通エリアで実現したらと思うと、楽しみでワクワクしてしまいます。

 

「戦災復興計画」と定禅寺通の変遷

戦災後の復興計画により、昭和23年に定禅寺通は46メートルに拡幅されました。その後、昭和33年にケヤキが植樹され、歩道・車道・緑道という骨格が固まったのが昭和35年。昭和55年には中央緑道のレンガタイルが整備されるなど、定禅寺通は変化してきました。
平成13年には現在の中央緑道が完成し、イベントも行える公園としてウッドデッキなども整備されました。

※資料提供:仙台市戦災復興記念館                   

戦災復興区画整理事業後の定禅寺通                   

         現在の定禅寺通                                     

みなさんは、定禅寺通の中央緑道が4ブロックに分かれていて、それぞれにテーマがあることを知っていましたか?
西公園側の西から順に

『杜』 彫刻「水浴の女」があるエリア
『アート』 せんだいメディアテーク前のエリア
『音』 彫刻「オデッセウス」があるエリア
『出逢い』 彫刻「夏の思い出」があるエリア

ご存知なかった方は、4つのテーマを意識して散歩しながら、これからの変わろうとしている定禅寺通を想像してみてはいかがでしょう。

「杜の都のシンボルロードでもある定禅寺通の価値を広く皆さんと共有したい」とも米竹さんは話されていました。定禅寺エリアが大きく変化し発展するには、まだまだ課題もあるかもしれません。実現には私たち市民の共感と協力も必要になると感じました。ぜひ一緒に考え積極的に声をあげていきましょう。

 

「SENDAI光のページェント」を開催した「ハロー定禅寺村」とは

昭和60年に発足した「ハロー定禅寺村」は今の「定禅寺通り街づくり協議会」の前身にあたるそうです。当時のメンバーは73名ほど。定禅寺エリアにお住まいの方やお店に来ている人たちなど、街を楽しみ、大切に想う人たちの自由な集まりだったそうです。米竹さんは当時43歳でメンバーのひとりでした。

「車道ができてからの定禅寺通は交通量が増えて、スパイクタイヤが削った道路の粉塵がケヤキについて真っ黒になってしまってね。『暗い、物騒だ』という声もあり、何とか明るくしようと光のページェントを仙台市に提案し、昭和61年に『SENDAI 光のページェント』がはじめて開催されました。その後、スパイクタイヤも廃止になって、脱スパイクタイヤ運動が全国に広まったんですよ」

「ハロー定禅寺村は任意の団体。『遊び心』と『だめでもともと』の精神で取り組んで来ました。光のページェントは『ダメでもともと。地域のためになるなら失敗してもたまにはいいじゃない』と言いながらで仙台市に提案したんだよ」と楽しそうに話してくださいました。
定禅寺通の発展は、楽しむことを忘れない自由な大人たちのアイディアから生まれていました。

米竹さんは「定禅寺通720メートルを使って運動会もいいね」と面白そうに話します。
現在も「楽しむ」ことを大切に定禅寺通エリアの活性化を考えていらっしゃいました。その根源は子どもの頃に遊び場だった定禅寺通の楽しかった原風景にあるのかもしれません。
専門家や有識者、企業も交えて意見を出し合っている「定禅寺通活性化検討会」。米竹さんの弛まぬ発想力と行動力、そして地域愛を感じる言葉は、未来の定禅寺通エリアの活性化の為に私たちが記憶しておくべきとても貴重なものでした。